
昭和9年、曾祖父が始めた和歌山県地場産業のメリヤス業(主にカットソー用途の丸編みニット生地製造)戦後の日本の高度成長を支えた産業の一つである繊維業は、和歌山県の雇用や経済にも貢献しました。
90年代後半、大手SPAの海外生産を皮切りに、日本のアパレルメーカーはアジアを中心とした海外生産へシフト。国内繊維産業の基盤は弱体化の一途を辿って来ました。
私の育った家は、曾祖父がメリヤス工場に使用していた場所で、曾祖父が亡くなる3歳頃まで同居、根っからの和歌山育ちで、高校そして大学も地元和歌山の学校に通いました。
大学卒業後、大手紳士服店に勤め、2年目は長野県で勤めました。
長野県で勤めていたある日、3代目である父が東京出張の帰りに一緒に軽井沢のホテルに泊まろうと電話を受け、お互い仕事帰りにホテルの部屋で会話した際に「和歌山に戻って家業に勤めないか?」と誘いを受けました。2001年の事です。
生まれてこの方、和歌山以外に住んだことがなかった私が、和歌山とは違い海がなく雪国の長野県での生活にも慣れ、むしろ充実してきてはいたのですが、1年近く会っていなかった父を久々に会ったせいか、自分の想像の中の父より随分歳をとったように感じました。
小学生の頃、自分の父が何の仕事をしているかもわかっておらず、同級生で同業の友達に、給食の時間に言われてはじめて知ったくらいです。高校時代も家業を継ごうなどほぼ考えていなかったですし、毎日決まった時間に起床し、家に帰って食事をして寝るだけの父の姿を見て、一時こんなふうになりたくないと母に話したことも覚えています。
大学時代、就職活動時も家業を継いでほしいなど、父からは口にされたこともなく、むしろ「お前のやりたいようにやれ」と言ってくれていたのを思い出します。
高校3年生の時に進学校での勉強が嫌になり不登校になった際も親不孝をしましたが、自分が今までずっと親不孝だと思っていたことは、「やりたいようにやればいい」と言ってくれていたにもかかわらず、やりたいことを全く見つけられていなかった事です。
母親はどちらかというと世間体を気にする方で、こんな行動をしたら父や家がどんなふうに言われるかなど、幼いころから言い聞かされてきたところはあったものの、自分の中ではどこか最後は家業があると甘んじていたのだと思います。
会社に入社してからも、特に20代の頃は父に大変気苦労を掛けることも多くありました。
30歳を目の前に自分の結婚したい相手を紹介したいと言った際も、ちゃんと腰を据えて会話してくれ、会いたくないと言った母を後日諭してくれていたことも感謝に絶えません。
自分の望むと結婚をし、30歳で娘を授かり、仕事にも今までないくらいの責任感と面白さを感じるようになってきました。
「やりたいこと」をようやく見つけた気がしました。
その後数年、毎日、休みの日も営業の事、生地の事で頭がいっぱいなくらいでした。
いつものように、会社に最後まで残ってデスクワークをしていたある夜、ガムシャラになっていた自分の頭にふとあることが思い浮かびました。「明日、目が覚めて父が亡くなっていたら、会社は誰がどう運営していくんだろう?」
丁度、ベテランの総務部長も退職を迎える時期でもあり、益々もって不安になりました。
36歳のある日、父に営業を離れて総務に行きたいと自分から願い出ました。
父からは今までと一変、猛反対を受けました。
理由は、当時会社の売上の柱だった私が営業を離れると、会社の業績に大きく影響するとの事でした。
会社の周囲の人たちや、姉や弟からも家族会議になるほど猛反発を喰らいました。
ただ、今後会社を継続させていくなかで、営業一辺倒で来た私は、会社の運営方法を勉強しなければならないという危機感を強く感じていたので最終的には父を押し切りました。
今度は「やりたいこと」をやって、また親不孝をした気持ちです。
自分がやりたいと言ったからには、絶対的に結果を出さないといけないプレッシャーも大きくありましたが、退職される前任の総務部長は約1年近くにわたり、私に自分の得た知識や経験を惜しみなく教えてくださり今でも感謝しております。
また、毎日編地の事ばかり考えてた私に、自分の知らなかった方面の世界の教えをもらうことで、視野が拡がり、今思い返してもその頃は本当に毎日が充実していました。
新しい事を知る楽しさと、先人の知恵や努力へのリスペクト「温故知新」をより心に置くようになりました。
コロナ禍の前年2019年11月に、父に代表権を与えてもらいまいた。父が代表権を持ったバブルの頃とは違い、日本の繊維業界が縮小し続ける環境で、自分自身もまだまだ未熟で不安でしかたなかったですが、「すべては結果的に自分の選んだ道」と心に言い聞かせ、就任後すぐに見舞われたコロナ禍もめげずに日々精進しています。これには自分ひとりでは大したことは出来ず周囲の支えががあってこそと身に染みて感じています。
2016年9月にいままでBtoBのみの商売だったところに、営業の従弟から一般消費者向けに自社アパレルブランドを作りたいという話を受け、私も大賛成しました。
ブランド名は「Bebrain」(ビブレイン)と言います。
店舗・人員など極力コスト負担の掛からない手法で、EC販売からスタートしたのですが、ネット販売やDtoCは、自分たちの考えが甘く想像以上に難しいものだと日々感じています。
ただ、自分たちの作る編地で、自分たちの作りたいアイテムをつくる。これ以上に作り手冥利に尽きることはありません。
BtoBでの商売は、売れているもの・売れそうなもの・生産量が見込めるものなどばかりに視点が行きがちでしたが、自分たちの作る最終製品を一般消費者の方に直接感想や意見を聴ける事で、新たな世界が広がったと感じています。
作り手として、更に自分たちの作る編地に愛着が湧いてきました。
アンテナ的に、東京を主体とした関東で百貨店の期間限定店を出店すどイベントをしておりましたが、和歌山県の地場産業ブランド強化支援事業の補助金を活用っさせて戴いていることもあり、近年は地元和歌山でもっとPRしていきたいと考えるようになりました。
というのも、自社のアパレル商品や、メディアに取り上げられた際などに最も喜んでくれているのが、和歌山の工場に勤める社員や、自分たちの近くの人たちなのです。
購入された方が喜んで着ていただいて、作り手の我々がその声を聴き喜び、地元和歌山をはじめ世間に貢献できる。「和歌山には、こんな色々な会社が普段私たちがで着る衣料品などの編地を作ってるんですよ。」と他府県の人や、地元の若い世代にも伝えたい。
「三方よし」のこの精神に勝るサステイナビリティなど存在しないです。
ものづくりをする人たちがものづくりへの楽しさを忘れず、周囲に必要とされながら、培ってきた技術を承継していく。
曾祖父が和歌山の地で始めて約90年、まずは100年企業を目指し、その日に父と、仏壇の前で曾祖父と祖父に、そして自分を育ててくれた地元和歌山に感謝の報告をすることが、今の私の「やりたいこと」です。

【受賞歴】
・2014年 「ジャパン・ベストニット・セレクション」で技術賞を受賞
・2016年 「ジャパン・ベストニット・セレクション」グランプリと経済産業大臣賞を
受賞。
・2019年 「GOOD DESIGN AWARD 2019」(グッドデザイン賞)において、
自社独自改造編み機・同機会で製造した編地「バランサーキュラー」と、
独自編地バランサーキュラーを使用したコンフォータブルな「Bebrain」の
セットアップジャケットパンツでダブル受賞
・2019年 「J∞QUALITY」ものづくりの達人たち大賞を受賞
